TOP >> 上海留学日記2000 (2000年4月〜2001年2月の交換留学生活)
 


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2001年2月1日(木) シャンソンコンサートを開く
飛行場に熊本からの堀シャンソン教室の趙さん一行を出迎えに行った。彼らは今日から4日間の予定で上海に滞在し、明日2日に華亭ホテルでコンサートを開く。話によると昨日、趙さんの経営する中華料理屋に偶然、毎日新聞社の記者が買い物に来て、上海でコンサートを開くことを知った彼はすぐに取材を開始し、今日の熊本の朝刊に上の記事が掲載されたらしい。僕は明日のコンサートの中で日本語と中国語で挨拶をする予定。人と人との出会いというのは本当に不思議なものである。友人と出会い中国語を始め、上海に留学に来て、一方熊本では趙さんと出会い、明日彼らの夢の手伝いをする。

2001年2月2日(金) シャンソンコンサートを開く 「母親の故郷・上海でシャンソンを」シャンソン・コンサート大成功に終わる
今日はいよいよコンサート当日。昼の3時に会場の華亭ホテルに行って、打ち合わせを始める。ホテルの2階に上がり、今回無償で提供してもらった宴会場を初めて見て驚いてしてしまった。立派な宴会場内に100席分の長テーブルとイス、それにミネラルウォーターがずらりと置いてある。ホテルの好意と日本の和平旅行社に感謝した。リハーサルを眺めながら、自分自身もコンサートの中で挨拶をすることになっていたので、原稿を見直す。夕方7時になるとお客さんが入りだした。すぐに100席は埋め尽くされた。ほとんどが中国人。7時半になりコンサート開始。まずは趙さんの挨拶、「日本にいても私の祖国は中国です。今回母親の故郷・上海でシャンソンコンサートを開けることを嬉しく思います。」そして僕が挨拶。中国語の原稿は用意していたが、肝心の日本語の挨拶を準備していなかったが、たじたじになりながらそれも終わり、いよいよコンサートが始まった。今回のシャンソンコンサートは歌詞は全て日本語、それにもかかわらず、会場にいた多くの中国人が身を乗り出して聴いてくれたのは、音楽が国境を越えていたのだろう。歌詞は分からなくても、音楽として理解していたのだろう。印象的だったのは、5人目の趙さんの妹の費さんが歌う時だった。誰もが予想していなかった。費さんがステージ上でいきなり泣き出し、5年前の阪神大震災を振り返り話し出した。今があるのは、祖国中国と日本人の支えによるものだ、とそういう事を言っていたと思う。会場に来ていた多くの中国人の感動を呼び、涙ぐむ人もいた。最後にステージに立ったのは、今回の主役、趙美麗さん。堂々とした歌声でたくましくそして、強烈な印象を会場の全ての人に与えたような気がする。コンサートの最後は、会場に来ていた多くの中国人と共に「大海」を大合唱をした。会場の全ての人が一つになったこの故郷を思う歌を聴きながら一種の安らぎを感じた。そこには、歌を通じて触れ合えるものがあった。上海に留学に来たのが去年の4月。そして留学が終わりまもなくこの地を去る今、この上海で着実に自分自身の足跡を刻み、何かしら初めて達成感・満足感を得たような感じだった。詳細はこちら

2001年2月3日(土) シャンソンコンサートを開く
コンサートも無事に終わり、今日はシャンソンの一行と外難の遊覧船に乗って3時間の観光をする。いつも中国人の友人と遊覧船に乗るときは 1時間コースで小さなボートだけど、今回は3時間の長いコースで国内最大の遊覧船。揚子江に出るあたりまで、船は進んでいく。遊覧船の中から果てしなく続く川を眺めながら、昨日のコンサートの興奮を思い出していた。夜は和平飯店でジャズを聴く。定番の観光コースだ。しかし、ちょっと違った。ジャズの演奏の途中から趙さんたちがマイクを借りて、自ら歌いだしたのだ。またしても、和平飯店にジャズを聴きに来ていた他の旅行者、中国人客と盛り上がってしまった。本当に歌が好きで好きでたまらない人たちなのだろう。

2001年2月4日(日) シャンソンコンサートを開く
1日から3泊4日の予定で熊本から来ていたシャンソンの一行が今日熊本へ帰るので、空港に見送りに行った。

2001年2月8日(木) 帰国の準備・荷物の整理
日本に送る荷物を整理する。ビデオカメラ、ノートパソコンと荷物がたくさんあるので、とりあえず不要になった教科書類や衣類を先に郵便で日本に送っておくのだ。部屋の整理をしながら、本当に日本に帰るんだと実感する。

2001年2月9日(金)
中国の大学はあと10日ほどで、次学期の授業が始まる。今日、寮の4階から1階に引越しをした。普通、国際寮の2階から6階に留学生は住んでいるけれど、僕はもうじき日本に帰るので、部屋割りの関係上、1階に移って欲しかったみたいだ。事務室の先生と偶然留学生数の話になった。次学期はどうも日本人の留学生が40人に激減するらしい。一方、韓国人の留学生が90人とダントツになったということだ。原因はいろいろあるのだと思うけれど…。明日は、シャンソンのコンサートで先日来ていた趙美麗さんの従兄弟の張さんの家で夜ご飯をいただくことになっている。

2001年2月10日(土)
先日シャンソンのコンサートの為に熊本市から来ていた趙さんが御礼をしたいからと、従兄弟の張さんに頼んで、今日夕食を頂きに行くことになっていた。張さんの家は上海市の中心部を流れる黄浦江を挟んで東側の隅に位置する。上海の観光地図では、やっとかっと載っているようなはずれにある。交通大学から初めに地下鉄1号線で人民広場に行きそこで地下鉄2号線に乗り換え、さらにバスに乗って45分、やっと張さんの家に着いた。同じ上海かと疑うほどの静かな場所で、人も少ない。家では、一家の厚いもてなしを受け、久しぶりに家庭料理を味わった。張さんの息子は今年26歳、4月から趙さんのいる熊本市に留学するらしい。食事を囲んで、いろいろな会話をした。大好きな家庭の雰囲気。上海に留学していてもこのように一般家庭にお邪魔するのは、とても貴重な体験だ。

2001年2月11日(日)
上海大学の友人、李(リー)君と数ヶ月ぶりに電話で話をした。思えば、今から2年前初めての中国、1999年夏の1ヶ月間上海大学短期留学の時、知り合った一番目の中国人の友人が彼だ。あの夏の1ヶ月間が正式に留学しようという気持ちにさせてくれ、去年の4月から交通大学に本格的に留学している。それももうすぐ終わる。今日電話で李にもうすぐ留学期間が終わり、日本に帰ることを告げた。そして、帰国前にもう一度会おうということで、来週の日曜日に上海大学へ行く約束をした。荷物の整理をしたり、久しぶりに友人に会ったりして別れを惜しみながらも、帰国する日が刻々と迫ってきている。

2001年2月12日(月) 帰国の準備・荷物の整理
忙しい一日のスタート。まずは帰国の準備で、日本へ送る荷物を郵便局に持って行く。航空便、陸便、船便があって、値段はこの順に安い。約1ヶ月で届く、陸便で送ることに。20kgで500元(7,000日本円)かかってしまった。その後、上海駅に15日の南京への切符を買いに行った。上海→南京の「新空調二等軟座特快」という切符で86元(1,200日本円)、ちなみに上海駅から南京駅までの所要時間は2時間58分。この後、夕方の6時30分に日本人の友人と人民広場で待ち合わせをしていたので、そちらに行く。上海に少数民族・新疆ウイグル自治区の人が連ねている店があって、そこで食べないかと誘いがあったのだ。確かに人民広場から歩いて、10分くらいのところの「広東路」という通りの一部が「新疆街」みたいになっていて、新疆ウィグルの人たちのコミュニティが形成されていた。新疆の人たちは見た感じがすごく欧米人っぽい顔つきをしている。いくつもの食堂があってその内の一つに入った。一般の中国人(漢民族)はこういう場所には敬遠して近寄らないのだろう。「新疆炒面」という料理がおいしいということで、注文した。どちらかというと、ヨーロッパのパスタ料理に近いといった感じ。新疆の位置から言っても、食文化は少なからずヨーロッパからの受け継いでいるのだろう、と思いながら味わう。その後、復旦大学の友人に会うために、開通したばかりの地下鉄・明朱線に乗って行く。時間はすでに9時30分。酒を飲みながら、帰国の事などいろいろと話をして、タクシーで交通大学に戻ったのは深夜の2時を回っていた。

2001年2月14日(水)
今日は"情人節"(バレンタインデー)、上海人にとっても例外ではない。ただ、日本と違いチョコレートは送らないみたいだ。一般に男の人が花を買って、女の人にプレゼントする。一方女の方も何かしらプレゼントを男に上げるらしい。その他、カードを交換し合ったりと、特に決まりがあるわけではないらしい。今日は、上海のいたるところで、花を持ったカップルを見かけた。

2001年2月15日(木)〜17日(土) 南京へ旅行に行く 南京への旅日記
南京への旅日記

2001年2月18日(日)
上海は久しぶりの晴天。帰国前に挨拶をしておこうと半年ぶりに上海大学へ行き、上海人の友人の李(リー)と大学の食堂で昼食を食べた。それから、一緒に大学のキャンパスを回り、1年間の上海での生活や帰国後の計画などを話し、芝生で記念写真を撮った。今から2年前の8月、僕の中国生活はこの上海大学で始まった。夜は上海人の梁舒(リィアンシュー)の家に招待されて夜ご飯をご馳走になる。彼の母親は昼の2時から料理を作って準備していたらしい。僕が水曜日に帰るからと夜ご飯に誘ってくれて、今日初めて、彼の母親に会った。

2001年2月19日(月)
今日の夜は、友人15人ほどが集まって、送別会を開いてくれた。

2001年2月20日(火)
今日は、一日かけて荷物の整理。昼にタイの友人がタイ料理のレストランに連れて行ってくれた。夜、荷造りをしていると、何人かの友人が贈り物を手に僕の部屋を訪ねてきた。すごく感動してしまった。

2001年2月21日(水) さよなら上海
いよいよ上海を去る日だ。朝10時になると友人が次々と部屋に集まってきた。8人の友人に見送られながら、交通大学を後にした。実は、この日記は日本に帰ってから書いているが、今でもあの日の事を思い出すと、記憶が、鮮明によみがえってくる。タクシーに乗れば楽に空港まで行けるのに、お金が無かったので、リムジンバスで行くことにしたのだった。荷物が多いので、皆が手伝ってくれて、20分かかってやっと空港行きのバス乗り場までたどり着いた。ここで、5人の友人に別れを告げ、最後は3人の友人が一緒にバスに乗り込んで空港まで見送りに来てくれた。今思えば、人と人との深い付き合いをした1年間だったと思う。いろんな人と出会い、体験し、学び、助け合い、感動した日々だった。空港に向かうバスの中でも見送りに来れなかった2人の友人から携帯に電話がかかってきた。友人と電話で話をしながら、さまざまな思いが頭を駆け巡り、思わず泣き出してしまった。バスの隣に座っていた別の友人の手からポケットティッシュが飛んできた。何年ぶりだろう?こんなに感激して涙を流すのは・・・。人は一人じゃ生きていけない、様々な人に支えられながら生きていると思う。それは国、宗教、政治といったものを越えた、人間と人間がお互いを尊重しあう姿勢なのだろう。上海での1年間は僕にそう教えてくれたような気がする。この気持ちをずっと忘れることなく大切にしていきたいと思った。

留学生活は無事に終わり、2月21日に日本へ帰ってきました。上海での1年間の留学生活は忘れることのできない良き思い出に なりました。以後日本での仕事や生活の中で、辛いことや苦しいことがあったとしても、上海で出会った友人や様々な思い出が僕自身を勇気付け励ましてくれることでしょう。このホームページを見てたくさんの方からお便りや感想のe-mailをいただき、何よりの励みになりました。ありがとうございました。


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